弱者は救世主にはなれない
エゴでは幸せになれないとは宗教的に感じることでもある。
※以前も書いたが、私は宗教は科学であり、上手に使えば効果の高い自己啓発だと考えている。
外資系企業で働いたとき、「なぜ生きているか?」を問うあるトレーニングを受けた。
10代の若者であれば、自分はなぜ生きているかということを真剣に考えたことだろう。そして、それに見合ったような音楽を聴いたり、映画を見たり、経験をすることで青春を感じるものである。
しかし、20代、30代にもなれば、現実を受け入れ、できることを実践して生きるということに気づく。
それが人生だと気づくことが大半だろう。
私のこのトレーニングを受けたのは30歳の時だった。
結婚し、子供も授かり、年収1000万円を超え、まわりから見れば順風満帆と見えたかもしれない。(現実には厳しい時期だったが)
そんな中での「なぜ生きているか?」という問いに対する答えである。
そのトレーニングは、自分の大切なもの、自分が大切にしてきたもの、子供のころに好きだったこと、忘れられない思い出、人生で後悔していることなど、自分の生きてきたことに対する質問に答えていくものだった。
その時の自分には、振り返る必要もないような過去の思い出だった。
その質問に答えることで「自分が生きている目的」を探すというものであった。
それまでの自分は、好きなことをして、好きなものを手に入れるという極めて単純な生き方をしていた。
こんなことに意味があるのか?とすら思えるトレーニングだった。
しかし、自分自身に問い続けると自分の知らない自分がいた。
最後に出た答えが「弱者救済」だったのだある。
好き勝手に生きたきた自分が弱者救済とは笑い話である。
しかし、それが自分自身で納得した答えでもあった。
そういうことか!と思うことが人生には何度かあるが、正にその瞬間だったと思う。
しかし、弱者救済をするためには、強者でなければならない。弱者が弱者を救うことはできない。
当たり前のことのようで、難しい問題である。
最近では、香港やウイグルで大きな問題を抱えている。
それらの問題を解決したいと誰もが思うことだろう。
しかし、何かできることはあるだろうか?・・・無力とは、こういうことなのだと思う。
日本も貧困が大きな問題となっている。
そんな方々も救えないものかといつも考えている。
キャッシュバッカーのコンセプトでも説明しているが「みんな得する」は目標ではある。
しかし、みんなが得をすると薄くなり、限られた人間が特をすると厚くなるということに気づく。
格差社会とは、その象徴であることは言うまでもない。
以前の日本が進めていた皆中流というのは一つの理想形かと思う。